豊臣秀頼といえば、大阪夏の陣で大阪城が落城し、その際に自刃したというのが通説になっております。
しかし、大阪城落城の1ヵ月後、イギリスの東インド会社のリチャード・コックスという男が日記で豊臣秀頼は実は生きているという噂があると書きました。
また彼は数ヵ月後、薩摩あるいは琉球に落ち延びたらしいとも付加えております。
本当でしょうか。信じがたいですが、うそとも言い切れないのです。
淀殿と秀頼の仏様は実は見つかっていないのです。
城が焼けたのでいっしょに燃えて灰になってしまったと思われているのです。
余談ですが、家康は焼け跡から「付藻茄子(九十九髪茄子)」という名茶器を探させましたが、かなり破損して見つかったようです。
それでも家康はあきらめず、漆接ぎの名工、藤重藤元(ふじしげとうげん)に修復を命じて付藻茄子を復元させたといいます。
現在は付藻茄子をX線で確認したところ、表面を覆う部分はほぼ漆による修復であることが判明しております。
話がそれてしまいましたが、豊臣秀頼の生存説は「備前老人日記」などの数々の書物にも登場しております。
だれかが書いたのを皆が真似して書いたということも考えられますが、鹿児島市に豊臣秀頼の墓と伝えられるものなどもあったりします。
淀殿は淀君ともいわれますが、これは大阪城落城後にこう言われるようになったそうです。
敬意からではなく、「君」は遊女をあらわすような軽蔑の意味が込められているようです。
淀殿といえば、家康が淀殿を人質をして差し出すなら豊臣家の存続を認めると交渉していても本人が受け入れず、結果として豊臣家の滅亡へと歩みました。
また、大坂冬の陣では、家康軍はかなり疲労しきっていて退却もよぎっていたといいます。
そんななか偶然にも淀殿の居住してる邸に砲弾が落下して淀君に仕えていた女官たちが亡くなるという事件がありました。
本丸には大砲の砲弾は飛距離的に届くことはなかったそうですが、その事件で淀殿は厳しい条件の和議を飲むことを決め、結果として不利な戦いである夏の陣につながっていきます。
夏の陣では秀頼自らが出陣する総力戦が計画されていたといわれております。
しかし、秀頼はなかなか出陣してきません。
淀殿が止めていたようですが、結果、家臣たちはあきらめて不利な戦いに望んで散っていきました。
こういった淀殿の性格を考えると、大阪城であっさり果てるとは思えません。
仏様が見つかっていない以上、逃げ延びて生きたという説も十分あり得るのかと考えられます。
天草四郎時貞は実は豊臣秀頼の子供だったなんていう説もあります。
年齢的にはありえるのかも知れませんが、これはちょっとどうですかね。
豊臣秀頼の生存説?鹿児島に墓がある?天草四郎は秀頼の子供?

コメント
秀頼が天草四郎とは思いませんが?その血筋か子孫だとも考えられる点は多々あります。
豊臣崩壊時点にて多数の(逃がし)があった事実(伊達家、島津家、上杉家)にその子孫がかくまれた事実。
しかも豊臣家に嫁いだ徳川も逃がすよう命じられている。
それだけ逃げる余裕もあった